<平成ダイアリー ある30年>

(1)クルマの街で 


 昭和64(1989)年1月7日、首相官邸の記者会見場。

「新しい元号は、『へいせい』であります」。詰め掛けた報道陣を前に、官房長官の小渕恵三が、やや高めの声で宣言した。後の首相を「平成おじさん」と知らしめたこの翌日、平成が幕を開ける。

 列島全体が、どこか浮足立っていた。昭和天皇の崩御で服喪の重々しさに覆われる一方、これから始まる新時代への期待も高まっていた。

 世は空前のバブル景気。東京株式市場は平成初の立会日となった月曜日、1月9日も続伸し、平均株価3万0678円と史上最高値を更新した。企業の業績は軒並み好調。世界企業へ成長していたトヨタ自動車が本社を置く愛知県豊田市も、活況を呈していた。

 この街で平成元年、男女に女の赤ちゃんが生まれる。この1年に産声を上げた124万6000人余のうちのひとり。「あやか」と名付けられた、どこにでもいそうな女性。でも、彼女は生い立ちを語るとき、なぜか、いつも涙が出る。

     ◇

 平成元(一九八九)年、愛知県豊田市。クルマの街は好景気に沸いていた。トヨタ自動車はその前年、国内販売二百万台の目標を前倒しで達成。かつて、男たちが「いつかは」と憧れたクラウンの売れ行きが、大衆車カローラを一時抜いた。元年秋にはクラウンをしのぐ高級車セルシオも華々しくデビュー。従業員や家族が増え、工場近くの田畑がアパートやマンションに変わっていった。

 そんなマンションの一室で、若い男女が暮らし始める。トヨタの職業訓練校を出て、正社員として工場で働く二十一歳の男と、別の会社に勤める一つ下の女。一年前、宴席で出会い、男の一目ぼれだった。

 一月十四日に婚姻届を出し、八日後の日曜に式を挙げた。嫁入りは、妻の実家の東三河から、紅白の幌(ほろ)付きの軽トラで家具を運んだ。体の不自由な妻の母を病院に迎えに行き、式場で男が車いすを押す。披露宴で同僚がギターを弾き、長渕剛の「乾杯」を歌った。

 この日、皇居では、宮殿・東庭に安置された昭和天皇の棺(ひつぎ)や遺影への一般拝礼が始まる。世にいう、自粛ムード。だが、男は気にも留めなかった。とにかく、一刻も早く。新婦のおなかに、新たな命が宿っていたから。

 七月、待望の長女が生まれた。「あやか」。男が好きだった響きに、実家近くの安産祈願の寺で漢字をあててもらった。

 夜勤明け。男は眠い目をこすり、近くの公園でベビーカーを押し、寝かしつけて布団に入った。乾燥肌で赤くなりやすいほっぺに、クリームをそっと塗った。「活発な子に育って」。生まれたとき二六〇〇グラムと小さかったが、夫婦の願い通り、周りよりも少し早く、十カ月で歩いた。ほどなく、年子の妹も生まれる。

 築四年の3DK。同じく子を授かった同期の仲間が集い、ビールや焼酎を酌み交わした。料理上手な妻の煮物をつまみに、子の成長を自慢し、将来を語り合う。家族四人、マイカーで出掛けた公園でゴムまりをけって遊んだ。絵に描いたような新婚生活。しかし、長くは続かなかった。

 「好きな男ができた。養育費はいらないから」。妻はそう告げ、あやかと妹の手をひき、出て行った。三年足らずの幸せ。首都圏を揺るがしていたバブルの終焉(しゅうえん)が、地方にも押し寄せようとしていたころ。世間では、「バツイチ」という言葉が広まり始めていた。

 最愛だったはずの妻と、生きがいだった二人の娘を突然失い、男は仕事を投げだし、実家に戻った。しばらく独り身のまま、娘二人の写真を免許証のケースに忍ばせて。

 今年三十歳になるあやかに、そのころの記憶はない。

     ◇ 

 平成の三十年と重なるあやかの歩みを、その時代の空気とともに振り返ります。

 <セルシオ> 平成元(1989)年に発売されたトヨタの高級セダン。ラテン語の「至上」を意味する「セルサス」に由来する。当初、米国で「レクサス」ブランドの最上級車として売り出されたが、バブル景気に沸く国内市場にも、従来の高級車の代名詞「クラウン」を超える高級車として投入された。その前年には、ライバルの日産自動車の高級車が爆発的に売れる「シーマ現象」が起きていた。

(2)涙のポケモン 

カンッ-。子どもたちの声に、金属バットの音が混じる。近所のグラウンドに家族で出掛け、六つ上の「お兄ちゃん」が打ち込む少年野球の応援。平成元(一九八九)年、愛知県豊田市で生まれたあやかは、二歳で母に連れられ、妹とともに父の家を出る。母は、バツイチの新しい「お父さん」と再婚し、あやかは一駅ほどしか離れていない保育園に通い始めた。物心ついたとき、家族は五人だった。

平成四年、甲子園での五打席連続敬遠で「ゴジラ」こと松井秀喜が注目された夏。新しい父の野球熱は相当で、小三の義兄は一日三百回の素振りを課せられていた。母も、そんな義兄の練習の世話を厭(いと)わず、コーチの昼食の準備やお茶出しに精を出した。

 夫婦が再婚同士と知っていたママ友の一人は、照れながら、なれそめを話す彼女を覚えている。「買い物で、床に落としたものを拾ってくれて」。いつもそろって応援に一生懸命な家族は、周囲に円満そのものに映っていた。

 だが、幼かったあやかの記憶に刻まれているのは、家の中で両親が言い争う姿。平成九年の春ごろ。母が父に包丁を向けていた。なぜだかは、わからない。翌日、母に連れられ、妹と三人で家を飛び出した。山一証券が破綻し、今年の漢字に「倒」が選ばれた年だった。

 三人で九カ月、隣の市のアパートで暮らしたが、再三、説得に訪れた父に折れ、家に戻った。母が倒れたのは、その直後だった。

 小二だったあやかは妹と千羽鶴を折り、入院先に届けた。母は「ありがとうね」と笑みを浮かべた。「インフルエンザ」と聞いていたが、次第に呼吸ができなくなっていった。

 何度目かの見舞いのとき、昼食をとった病院の中のマクドナルド。前年に、テレビ放送が始まったポケットモンスターのおまけをもらい、ご機嫌だった。病室に戻ると、部屋の前で大人たちが泣いていた。「どうしたの?」。尋ねるあやかに、親類が言った。「お母さんは、星になったんだよ」

 母は、目が少し開いていた。「お母さん、うそ寝しとる」。返事はない。人工呼吸器を外すと、口元はかさぶたのようにカサカサ。口紅を塗ってあげた。棺(ひつぎ)に詰めた花のにおいが、嫌いになった。しばらく、妹と二人で遺骨を拾う場面を自由帳に描き続けた。

 母が入院したころから、姉妹は父方の祖父母と暮らしていた。母の死後、あやかは祖母から、父とは血がつながっていないと聞かされる。「行くところがないのに、お父さんが引き取ってくれたんだから、感謝なさい」。家に居場所がないような気がした。

 小学校では、母の姿をダブらせたのか、三、四年の担任だった大学を出たばかりの女の先生を追っ掛け回した。「見つけたら幸せになれるんだって」。そう教えてもらった四つ葉のクローバーを毎日のように摘み、職員室に届けた。

 いつもカラッと明るいあやかが、先生にそっと告げたことがある。「毎日、おみそ汁つくってるんだよ」。ちょっと褒めてもらいたかったのと、何かを伝えたかった。「すごいねっ」。先生は、あやかのサインに気付くことができなかった。

◆バブルの爪痕

 <山一証券破綻> 野村、大和、日興に続く四大証券の一角だった山一が平成9(1997)年11月、経営破綻し、自主廃業を決めた。株価や不動産価格が実態とかけ離れて高騰したバブル経済の崩壊で、保有する株などの含み損が拡大。損失を別会社に付け替える「飛ばし」を乱発したが、簿外債務を隠しきれなかった。社長が会見で「社員はわるくありませんから」と号泣する姿がテレビで繰り返し流され、バブル崩壊の爪痕を印象づけた。

(3)家なき子 


 真冬、手に息を吹きかけ、庭先の水場で蛇口をひねる。水が痛い。傍らでぞうきんを絞る妹の手は、あかぎれができていた。

 平成十(一九九八)年に母を亡くしたあやかと妹は、血のつながらない父と兄、そして祖父母と暮らしていた。「お嫁にいっても、困らないようにね」。祖母はそう言って、家事手伝いを小学生の姉妹に仕込んだ。

 あやかの当番は一日二回のトイレ掃除と、廊下のぞうきんがけ。妹は台所回りの床ふきと、洗面台の掃除。おつかいに夕飯の後片付け、肩たたきまで終えたころ、自由な時間はなくなっていた。たまらず、朝五時半に起きて、妹と誰もいない公園で遊んだ。それも、祖母に知れると「そんなに早く起きられるんだね」と、今度は早朝の掃除が日課に加わった。

 手を抜けば祖父母に怒られ、それを知った父から、また雷が落ちる。運が悪いと、三人から頬(ほお)を張られた。気が休まらず、息苦しかった。あやかはよく、缶コーヒーのCMソングでリバイバルヒットしていた「明日があるさ」を口ずさんでいたが、妹はあるとき、部屋の照明のひもの輪っかに小さな首をくぐらせた。「お母さんのところにいけるかな」。でも、ひもは一瞬で切れた。

 あやかは小学校が大好きだった。授業が終わる前から腰を浮かせ、放課になった途端、猛ダッシュ。誰よりも早くサッカーボールを転がし、ゴールに蹴り込んだ。小六になると、翌年の中学校からは完全週五日制が始まると知った。友だちは休みが増えると喜んでいたが、一人、心の中で「最悪っ」と叫んだ。

 卒業式で歌ったのは、両親や友だちへの感謝をつづった曲「心からありがとう」。家を飛び出したのは、その直後だった。

 春休み、友だちの家を転々とし、父に見つかっては連れ戻され、また家を出る。それほど「家にいたくなかった」。やがて、転がり込んだのは、妹の同級生のスパゲティ屋さん。一人で子どもを育て、店を切り盛りするママに親しみを感じた。ママは父に「しばらく様子見るから」と言い含め、店から中学に通わせてくれた。

 ママからすると、あやかはよく、ちっちゃなうそをついた。身を守るために染み付いたのか。宿題をやってないのに、「やった」。遊びに行ったのに、「行ってない」。そのたびに、ママは「一緒にいるんだから、顔で分かるんだよ」と向き合った。あやかも、母を感じたのか、厳しく叱られても居心地がよかった。

 制服が夏服に替わり、一学期が終わるころ。ママもあやかも「ずっとこのままではいられない」と感じ始めていた。学校も、児童相談所も、この先の生活を心配していた。

 ある夜、ママが店じまいしていると、突然、父が現れた。店のいすに腰掛けていたあやかに「どうするんだ」と詰め寄った。あやかはもう、父の顔を見ることすらできなくなっていた。押し黙ったまま、テーブルにあった帳面に書いて、差し出した。

 「家に帰るくらいなら、施設にいく方がいい」

 <学校週5日制> 家庭や地域社会で、子どもたちが活動できる時間を増やすことを目的に、平成4(1992)年から公立の小中学校、高校で毎月第2土曜日が休みとなった。95年に第4土曜日も休みとなり、2002年から完全実施された。もともとは働き過ぎの日本人の労働時間短縮の議論に合わせて検討された経緯がある。授業時間の短縮による子どもの学力低下などが懸念され、しばらく導入を見合わせる私立校が目立った。


(4)夢のなでしこ 


 情緒障害児短期治療施設。つまり、軽い問題行動などを、入所して治す場所。非行に走る少年少女を早い段階で更生させるのも、目的のひとつ。

 平成十四(二〇〇二)年、中学校に進んですぐに妹の同級生の家に転がり込んでいたあやかは、血のつながらない父や祖父母との暮らしを拒み、この施設での生活を選んだ。生まれたときから数えて、六つ目の「家」。「なんていいとこなんだろう」。第一印象でそう思った。

 なだらかな丘の上、家畜のふんの臭いが、どこからともなく鼻をつく。施設の敷地内に中学校があり、許可なしに、外に出られない。閉じられた空間のはずだが、毎日、友だちと寝泊まりでき、大浴場もあった。授業を抜け、先生とじっくり話ができる週一回のセラピーも楽しみだった。

 この施設は中学までしかいられず、高校進学を控えたあやかは中二の終わりのころ、名古屋市近郊の児童養護施設に移った。

 平成十六年、澤穂希率いる女子サッカーのなでしこジャパンが二度目の五輪出場を決めた。子どものころからボールを蹴るのが好きだったあやかも、その気になった。体育の授業でボレーシュートの筋がいいと褒められ、高校入試の集団面接では「趣味はリフティング」と真顔で答えた。

 高校で、男女関係なく誰とでも仲良くするあやかに、クラスの女友だちは「空気読めないね」と言った。そんな教室での人間関係が煩わしく、高一の一学期の途中から学校をサボるようになった。施設に帰らず、仲のいい同級生の家で過ごし、公園で弁当を食べ、たばこをくわえた。

 週の半分は、学校に行かない。別に、先のことはどうでもよかった。

 夏の日曜日。施設の部活動で打ち込んでいたソフトボールの練習後、男の指導員からベンチに呼び出された。名前はキタガワラ。熱血ぶりから「鬼瓦」とあだ名され、子どもたちに恐れられていた。

 鬼瓦はしかし、穏やかな口調で切り出した。「学校行ってないのか。やめるつもりか」。あやかは「えへへ」と笑ってごまかすだけ。鬼瓦は続けた。「学校やめちゃうと、ここにもいられなくなる。今、セカンドのポジションに穴があくのは、困るんだわ」

 高校の勉強は好きじゃなかったが、それからサボるのをやめた。元来、愛想がいい。トリノ冬季五輪で荒川静香が金メダルをとると、教室でイナバウアーを臆面もなくやってみせ、同級生を笑わせた。友達からルーズソックスを借り、制服デートもした。

 施設という「家」と、高校の間で脇道にそれつつも、それなりに楽しい時間を送っていたが、施設の暮らしは高校卒業まで。高二の夏。施設の高校生が集う交流会に参加した。同世代の仲間は「お世話になった施設の先生になりたい」などと将来の夢を語った。少し考えさせられた。

 進学は、はなから頭にない。格差社会が流行語になっていた。社会に飛び込んで、いったいどうしていこう。施設を出たら、どこに住めばいいのだろう。

◆コギャルに人気

 <ルーズソックス> 足首のあたりを緩くたるませてはく靴下で、1990年代に都市部を中心に大流行した。茶髪にミニスカートなど流行に敏感な女子高生「コギャル」の間で人気となり、ブームは地方にも波及。2000年代まで続いたとみられる。地面に擦れるほどたるませる「スーパールーズ」も一時流行した。その後、紺のハイソックスなどに取って代わられたが、最近もファッションの一つとしてディズニーランドなどではく若者がみられる。

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