<平成ダイアリー ある30年>

(5)ゆとり社会人 


 なだらかな丘の上に広がる、名古屋市郊外の住宅街。並木道沿いにある理容室のオーナー、高井英匡(49)は身構えていた。

 「ついに、初めての平成生まれがやってくる」

 平成二十(二〇〇八)年の春。高校卒業とともに、児童養護施設も巣立つことになるあやかは、この理容室での採用が決まった。高井は、社会に飛び出す主に十八歳の施設出身者を店に受け入れる、いわば「職親」でもある。「ゆとり世代」が大学卒業を迎え、世の企業が騒ぎだす数年前。「すぐ辞めてしまわないように、接し方、気を付けないとな」。自分にも、従業員にも、そう言い聞かせた。

 あやかがこの理容室への就職を決めたのは、実際「なんとなく」。施設を出ても、帰る家はない。行く当てもない。「寮あり」でほかに該当するのは寿司(すし)店とパチンコ店だった。続ける自信はなく、消極的選択で手を挙げた。

 店に入り、ついたあだ名は「平成あやか」。しかし、どこか揶揄(やゆ)したような世代のイメージを覆し、働きぶりはしゃかりきだった。

 三年間、理容師の資格をとるまでは見習い。高井は仕事に容赦ない。例えば、シャンプーの施術は「一人終えたら、汗だくになるくらい」。指が思うように動かないのがもどかしく、早朝に練習した。休日は専門学校へ。その合間に、顔なじみの児童養護施設へ出向き、ボランティアとカットの腕磨きを兼ね、子どもたちの髪にハサミを入れた。

 理容師を志していたわけでもないのに、目の回る忙しさにも耐えられたのは、強迫観念に近かった。「ここを辞めたら、行くところがない」。それに、続けてみると、客から「上手になったね」と言われ、指名ももらえた。そんな喜びを、少しずつ覚えた。

 高井からすると、ただでさえ、複雑な家庭で育った若者たちの「その後」は厳しい。これまで雇った二十人以上の七割はすぐに行方不明となり、風俗や犯罪に走ることもあった。

 だから、店を閉めた後に鍋をつついたり、店の前でバーベキューをしたり。あやかの成人式の日には、高井が「従業員が代々着られるように」と購入した振り袖が用意されていた。「家」と呼べる居場所がないあやかにとって、店は家庭のようだった。

 高井は、仕事に打ち込むあやかに二十五歳で支店の店長を任せた。初めて持った部下の指導。あやかの下で、一年足らずで辞めてしまった少女がいる。仕事中の態度を注意すると、食ってかかってきた。最後は、お互いけんか腰。でも、あやかは少女の去り際、声をかけた。「髪、切りにきていいよ」。少女は幼いころ、里親にバリカンで丸刈りにされ、トラウマを抱えていた。

 少女は今でも二カ月に一度、あやかの元をカットに訪れる。一年前に始めた介護の職場のできごとを報告する少女に、「そっか」と相づちを打ち、手際よくハサミを走らせた。

 そんな平成最後の年の瀬の夜。あやかのスマートフォンに、一通のショートメールが届いた。

 「二十七年前 親の都合で悲しく辛(つら)い思いをさせて本当にごめんなさい」

 顔も声も覚えていない、実の父からだった。

◆マイナスの印象強く

 <ゆとり世代> 明確な定義はないが、平成14(2002)年に実施された改定学習指導要領で、小中学校で進められた「ゆとり教育」を受けた世代を指す。過熱した受験戦争の反動で、完全週5日制や教科書を使わない「総合的な学習」が導入されたが、08年に「脱ゆとり」へあっけなく転換。「学力が足りない」「協調性がない」といった批判的な見方をされがちな世代でもある。テレビドラマ「ゆとりですがなにか」が16年に放送され話題に。テニスの錦織圭選手やフィギュアスケートの羽生結弦選手ら、世界で活躍するアスリートを輩出している。

(6)特別な年の瀬 

 

 平成最後の-。平成三十(二〇一八)年、あやかの師走は、そんなイベントじみた感傷には浸る暇がないほど、慌ただしく過ぎていった。

 店長として切り盛りする理容室の電話が、ひっきりなしに鳴る。手書きの予約帳は、大みそかまでほとんど埋まっていた。午後九時半に営業を終え、照明を落とす。後片付けを終えて一息つくと、頭をよぎる心配ごとがあった。「ママ、大丈夫かな」

 ママとは、愛知県豊田市でスパゲティ屋をやっていた吉木美子(49)。小学校を卒業してすぐ、義父と祖父母に厳しくあたられる日々に耐えかね、家を飛び出したあやかを引き受けてくれた。ママは一年二カ月前、「余命一年」と宣告される末期がんを患っていた。

 店が休みの月曜日。病院へ見舞うと、ママは緩和ケアの病室でベッドに横たわり、全身に転移したがんの痛みに耐えていた。雨上がりの空にかかっていた虹の写真をスマートフォンで見せると、表情が少し和らいだ。

 両親の離婚に母の死、血のつながらない家族との暮らし、そして家出。でも、施設の生活や就職した後も、いつも近くに支えてくれる人がいた。

 「振り返ると、私、幸せもんだった」

 ママを見舞う前、八歳で亡くなった実母の墓参りに立ち寄った。あやかはその墓前で、「ごめん」と心の中でつぶやいた。その数時間前、二歳で生き別れた実の父から頼まれた伝言だった。母と別れる際、子どもたちといっさい連絡をとらないと約束していた父の「ごめん」。

 父の所在は三十年近くわかっていなかった。あえて捜しもしなかったが、中日新聞の取材を受け、自分の携帯電話の番号を託していた。十二月のある夜。仕事を終えて部屋でくつろいでいると、突然、ショートメールの着信音が鳴った。

 「二十七年前 親の都合で悲しく辛(つら)い思いをさせて本当にごめんなさい

 今まで苦労した分これからは誰よりも幸せな人生を送って欲(ほ)しい」

 泣きながら文面を追った。返信するまでに、一時間かかった。

 「生きてて良かったです!」

 あやかは、母の死や、姉妹の近況を少し報告した。父も、もどかしかったのだろう。

 「ショートメールだと文字数が限られるからLINEでもいい!?」

 「いいよ!!」

 空白の時間を一気に埋めるように、お互い、言葉があふれだす。幼いころ、あやかは父親似だった。父は、後の名古屋グランパスとなるトヨタ自動車のサッカー部に推されるほどうまかった。あやかも、サッカーが得意だったと伝えた。父はずいぶん前に、新しい家族ができた…。スタンプや写真で距離を縮め、やりとりは、日付が変わるまで続いた。

 そして、平成最後の年の瀬を経て、迎えた正月。父とはほぼ毎日、LINEでやりとりするようになった。

 「今日から又、店長として無理のない様に頑張って下さい」

 年始の休みが終わり、店に立った五日も、また新しいメッセージが届いていた。

◆スタンプ 人気に

 <LINE(ライン)> 利用者同士がメッセージの交換や通話を無料で楽しめる、主にスマートフォン向けのアプリ。平成23(2011)年に国内でサービスが始まって以降、スタンプと呼ばれる絵柄のやりとりが人気を呼び、急速に普及した。一度に送信できる文字数は1万文字。グループで一斉に交流できる機能は職場などで活用されているが、複数人から言葉の攻撃を受ける「LINEいじめ」が社会問題化している。

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